ずいぶん乱暴な質問だとは思うが、若い人にはこういう問いかけをしている。
結果は大体想像の通り、作家1:ミュージシャン1:両方1、とちょうど1/3ずつくらいになる。
「じゃあ、あんたはどう思うの? 」と言われると実は困る。強いて言えば「両方えらい」か。
「それじゃ答えになってないじゃない、だったらなんで訊くの!? 」確かにその通り…
だがちょっと待ってほしい。音楽というものは、その性質上、誰かが演奏してくれないと我々が受け入れることができない。
楽譜を見ただけで(何の楽器も使わずに)頭の中で、その曲を演奏することができる人もいるけれど、
そんなのは、例えば芸大の学生さんとか、ごく限られた人にできるだけ。たいていの人は、誰かに演奏してもらい、それを聴くしかない。
とするとミュージシャンがいなければ、そもそも音楽は成り立たないことになる。
クラシックの世界に限らず、違う人が演奏すると(アレンジも変わることも多いけれど)また一方で、一味違いが出てくる。
とはいってもオリジナルの方がいい、けれど「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」はボブ・ディランの原曲よりも、
PPM(Peter Paul and Mary)の方が出来がいい、ということもある。(例が古いのは、じいさんゆえ、許してくれたまえ。)
とにかくそこには違いがある。そうすると「どちらがいいか」という比較の対象になる。
曲が同じでも演奏で区別できるわけなんだな。またどう考えてもヘタなんだけど、「味がある」なんてこともあるしね。
ということは、曲を演奏するということにも相当重い意味がありそう。
ひょっとすると同じくらいの権利があってもいいのかもしれない。
ここでちょっと補足を。
作家の持つ権利(著作権だね)とシンガーを含むミュージシャンの権利(こちらは「著作隣接権」という、
ま、言葉なんかどうでもいいけど)には、少しというか、だいぶ違いがある。
保護される期間とか、送信可能化権とか(「何それ!? 」なんてあわてないで。いずれお話しますよ)、それから著作者人格権がないという違いがあった。
「あった」と言ったのは、ミュージシャン(これは著作者に対して「実演家」という。
なんだか古めかしい言葉、じじいが言うのもヘンだけど…)にも一部人格権が認められてる。
これは世界的な傾向(国際条約などによる)でもあるんだけど、当然といえば当然かな。これによって実は、すごいことになる。
演奏した「音」を使ってないカラオケや着メロはミュージシャンに関係ないと「その2」で言ったけれど、
この人格権のおかげでお金がもらえるように… なればいいんだけど、今すぐというわけにはいかない。でもいずれそういうことになるだろうね。
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